「自分の嫌なところ」を書き出してみました。
なぜ、そういう思考になるのか?を解明し、自己理解していくために。
自信がないところ
ビクビクしやすいところ
体調が悪くなりやすいところ
書き出したらノート1ページがあっという間にに埋まりました。
書いていて気づいたのは、私の嫌なところの在り方は母や父をみて嫌だと思っていたところだ、と気づきました。
そして、後の部分は社会で求められている姿に合っていないと感じるからではないか、と思いました。
社会で求められる姿、期待される姿に合っていないことが不安にさせるのではないか?と感じました。
それこそが両親の在り方でした。
私の両親は外向きには立派な両親でした。
良い大学を出ていい会社に入り、マイホームを建て、出世しようと努力する父の姿がありました。
外側の条件こそがすべてと思っている父でした。
良い嫁良い妻良い母であるべく、同居の祖父母と子どもの世話に邁進し、子どもにはいい教育をさせることに情熱を注ぐ母の姿がありました。
家事育児地域ボランティア活動に人並み以上に専念をする母でした。
が、すべてそれは外側の結果を追っていて、内側の自分たちの内面、本当の気持ちの交流の会話はしていない、と感じます。
だからこそ、母の本音はすべて子どもの私への愚痴になり、大人同士の関係では良き人を演じていました。
夫婦や家族の話し合いはなく、両親の、特に父の決めたことにただ従うのが当たり前でした。
そこで何か意見を言うとイラついた父が、怒ったり暴力を奮ったり怒鳴るので、それを回避するため、ただみな従っていました。
母からも、「あなたはどうしたい?」と聞かれた記憶はなく、「あなたは〜しなさい」とすでに母が決めたことに従うだけでした。
物ごごろついた頃には、「私の話しは聞いてもらえない。母の話しを私は聞いてあげないといけない。」という思考になっていました。
自分の感情を抑えるのが当たり前だから生きづらい生き方になっていったのですが、私が自分で嫌だな、と思うところが両親の在り方だと感じるということは、いかに彼らも生きづらかったか、と書き出してみてとても感じました。
でも、私は両親とは違います。
私はそのような両親に育てられながらも、私の感性に合わせた、私らしい在り方、やり方に舵を切り変えていかないと、彼らの人生の過ごし方を追ってしまいます。
もうこのやり方は手放していいんだよ、
私は私でいいんだよ、
このままの私でいいんだよ、
本来の私に欠けているものは何ひとつなく、偽りの私だからこそ、何か足りない、変わらないとだめだ、と思ってきたんだよ、
このままの、本来の私で大丈夫なんだよ、
と何度も何度も自分に教えてあげよう、と思いました。
自分について何でも書き出してみると発見がありますが、「嫌なところ」「見たくないところ」こそ大切な事が詰まっています。
そここそ、自分に優しく、語りかけながら観ていくと自分との和解、調和、統合が進む、と感じます。
そして自分を愛するほどに、両親も誰をも愛せるようになると感じています。
どなたかのヒントになれば幸いです。