内なる自分が本当に喜び、満たされること。

最近、自分の事を内観していたとき、

私は母になり、母として子どもと一緒に居たかったんだ、

とはじめて素直に思えました。

私は20年前に離婚しましたが、当時1歳の子どもがいました。

ですが私の摂食障害が結婚してから、寛解していたのがまたひどくなり、拒食で入院をするような日々だったので、元夫が引き取り、それから子どもと1度も会わない日々を過ごしていました。

自分がこの先どうなってしまうのかわからないくらい、子どもと離れてしばらくは、私は喪失感に打ちのめされていました。

布団から出れない日々がありました。

生きていてもしょうがない、という思考で毎日を泣き過ごしていました。

隠れて会いに行こうか、いや、新しいお母さんがいて私の存在がバレたら子どもを混乱させ、傷つけてしまうなど、子どもと会いたい気持ちと、余計な事をしてはいけない、という気持ちで葛藤し、そういう自分の気持ちに疲れ果てていました。

その葛藤が苦しくて、いつのまにか私は、もともと育てられないような母親ならば、私は母ではない、という思考を作り上げていました。

そして、私は母親である、というアイデンティを持たずに20年を過ごしていました。

それが、先日、

母親であるという事実は変わらない、

とセラピストから言葉をもらってから、

私が本当にしたいと思ってきたことはなんだろう?

とはじめて考えはじめました。

私は母になり、母として子どもと一緒に過ごしたい、

私はこの思いを持つことに罪悪感を感じ、許されない、認めてはいけない、と思っていたことに気づきました。

私の、内なる本当の自分は、

子どもと共に過ごす、なんてことのない日々を送る事

それが私の願いであり、喜びであり、満たされる事柄だったのだろう、と気づきました。

別れてからはじめの数年は、子育て中のママの話しがとても辛く苦しいので、そこから逃げるように日々を過ごしていましたが、そこを超えていくと、段々に子育て中のママの話しから、私の子どももそのような時期を今過ごしているのかな?と、積極的に聞けるようになっていきました。

そして、そのフェーズを超えた今は、どの子も我が子、どの子も愛おしくて素晴らしい、と積極的に縁のある子どもたちと触れ合い、近所の子どもとのひとときの語らいさえ、もしかしたら、今の私の1番の喜びであり、満たされるひとときになっていたのかも、と感じています。

私が1番欲しかったものは、

成果でも承認でも地位でも経済力でもなく、

子どもとのなんてことのない語らい、

それだったのだなあ、と気づいたら、

今まで何をやっても何か満たされない、
があったわけだ、と気づきました。

1番手にしたかったことに、

私は蓋をし、認めず、許さないのだから

何がしたいのか分からない、になっていたはずだ、

と今、静かに気づきはじめました。

あなたも、何かぐっと蓋をしてきた、何か、はありませんか?

蓋をすればするほど、内なる自分の本当の喜び、満たされること、がわからなくなります。

誰もが、こころに蓋をする必要性を感じなくなり、内なる自分を喜ばせ、本来の自分の場所で寛げますように。

生きやすいとは、本来の自分の特性を認めて許して活かしていくこと。

最近、私はこんなに喋りたい人だったんだなあ、と自分で感心するというか、呆れる(笑)ことがあります。

よく喋る、というのは良くも悪くもあり、歓迎される場面と、歓迎されない場面がありますが、私はこんなに話したい人、いろいろ伝えたいことがある人だったんだなあ、と、まず自分が知って認めてあげることが、私にとって大事なプロセスでした。

なぜなら、私は大人しい子、と周囲から言われ、お喋りは良くない、しおらしくしていた方がうまくいく、というのを、幼少期の早い段階で家族の中で無意識に手に入れ、その成功体験に沿って生きていました。

でも、本当は本来の私の姿ではありませんから、話したいことが私の中に溢れていたからでしょう。

母方の祖母から毎年お正月にもらう、当用日記というものを、びっしりと毎年かなりな量を書いて埋めていました。

日記を贈って喜んで書いてくれるのは、孫の中でもあなたくらいだ、と、感心して祖母が語るのを、へえー、と不思議な心境で聞いていました。

みんなよく書かずにいられるな、という気持ちが私の正直なところだったからです。

えらいとかの問題でなく、私は書かずにはいられなかったのです。

それくらい私は、話したくても話しを聞いてもらえる環境を用意されていない、子どもの話しを聞くよりも、自分の感情をまずホールドできない両親をはじめ大人に囲まれていました。

ですから、大人として、話しを聞き、寄り添ってあげる、という役割を子どもの私がしていて、結果その立場の逆転、負担が私を思春期から病ませました。

それでも、せっせと日記や文章にして書くことで、なんとか内側に発生している私の中の混沌としたものを、外に出そうとしていたのではないか、と、感じています。

私が、本当に自分はよく喋るし、知らない人との出会いも好きだし、人そのものが好きらしい、と気づいたのは、夫と再婚してから、つい3.4年前からでした。

中年になってやっと私は、私の本来の特性を認識できるようになったのです。

あなたって、本当によく喋るね、と夫に感心され呆れられ(笑)、新しく知り合いになる人とも大概楽しい!!と思ってよく喋り、奥さんは元気だね、よく喋るね、と夫が言われてはじめて、えっ?私のこと?と認識する始末でした。

それくらい私は、どちらかといえば大人しく、人前に出るのは苦手だと思っていたので、へえー、そうなんだ、とはじめは人事のように感じていました。

私が生きづらい、と思って長年生きていたのは、あらゆる意味で本来の私を生きていなかったからなんだ、とその頃から気づきはじめました。

自分の感情を大人にケアされてきていないと、自分で自分の感情を感じ取ることができず、自尊心が低く自信がないので、人前にでること、自分の意見を言うこと、新しい人や場所などの環境の変化をとても恐れます。

私は人が嫌いなのでも、大人しいのでもなく、そのような幼少期を経て、恐れや不安が強いから、危険回避のために消極的な行動、生き方をしていたことが深く理解できるようになりました。

だから、私はそのようなトラウマ反応からの今までの生き方ではなく、本来の私自身を体現して生きる生き方にシフトしている真っ最中です。

そうした自分の体験から、

生きやすいとは、何ものにも邪魔されない、本来持って生まれた自分の特性を、自分自身が、良く知って認識し、その特性を許して活かしていくことなんだな、と感じています。

そんな唯一無二のその方の特性を、自分も他人もジャッジすることなく、のびのびと活かして生きていかれる方が1人でも多い世界であってほしいと願っています。

元々の特性がわからない、と言う方は、私と一緒に探求していきましょう。

 

私が学びをしてきた理由は、失われた父性を取り戻すことだった。

今日の朝、あるワークをするコミュニティに1時間ほど参加し、大事な気づきを得る貴重な時間を過ごしました。

そのあと、またすぐ別のコミュニティに3時間半ほど参加しました。そこでは私はスタッフの一員でもあったのですが、とても満ち足りた、滋養ある時間を過ごせました。

そのため、今日は朝5時に起きて、ウォーキング、洗濯、食事の支度などを手早く済ませて臨んでいました。

全く学びに興味がない人もいるのに、いつも私は学びに目が向くのはなぜだろう?と自分でも感じることがあったのですが、あとの講義でその応えが明確に分かり、見えなかったものが見えたような、非常にスッキリとした気持ちになりました。


知恵は刺激であり、一貫性のあるもの

講師のセラピストが話したときなるほど!と思いました。

私は、母親の肥大化した母性に呑み込まれ、父親が精神的に不在である、不在の父性の家庭で育ち、典型的な機能不全家族の子どもでした。

両親、祖父母から発せられるエネルギー、家庭で見聞きすることは一貫性がなく、整合性がつかないことがたくさんあり、私は小さな頃から混乱や葛藤を内側に抱えていましたが、感情を抑圧しているのでそのことに気づけません。

でも、無意識で、

私の内側に一貫性が欲しい!

失ってきた父性を取り戻したい!

こんな風に自分で言語化はできませんでしたが、この強い内側からの欲求に突き上げられるようにして、あれこれ学んできていたのだ、と自分の行動がシンプルに理解できました。

私は母から与えられる母性にお腹がいっぱいで苦しんでいましたが、父性が足りないことも、私を生きづらくしていました。

だから私が無意識にやってきたことは、それらの母性と父性をバランスよく取り戻したい、という行動でした。

私の無意識って、なんて賢いのだろう!と思わず思いました。

私は、父性である一貫性を手にしようと動くことばかりにも行き詰まりを感じていたところ、母性的なワークも昨年からセラピストに教えていただき、自分でもコツコツとやっていくうち、やっと自分の中が統合されてくる感覚がありました。

そして、現実的にも、母親と断絶したい!もうしてもいい!くらいに思っていたのがふと流れが変わり、必要なときは原家族とも交流する、という形になりつつあります。

母を拒絶するのも、拒絶するという形で母に呑み込まれ、私が、私らしく自由に人生をクリエイトする、という軽やかさではない、母に縛られていたんだ、と気づきはじめています。

自分が、ふと思う、感じる、はとても大事な行いです。

が、なぜだが分からない、より、

意識的に今なぜ私がこう思ったか、このような行動をしたのか、が明確になると、より人生がクリアに、彩り豊かになります。

ぜひ、みなさんにも彩り豊かな人生を経験していただきたい、と願っています。

わからない、という方は、私と一緒に楽しんで探っていきましょう。

私は自己探求ほど、エキサイティングな遊びは実は世の中にないのではないか、と密かに思っています(笑)

セッションは負担、でもおしゃべりならOK。そんな方はおしゃべりをしにいらしてください。

一昨日、お友達の話しをzoomで、
気づけば3時間くらい聞き、話していました。

セッションとかカウンセリングとか
を受けるのは負担になる。

感想とかを書くのも負担。

と、彼女ははじめは言っていました。

が、私は話しをしながら徐々に
セッションにもっていきました(笑)。

ただおしゃべりかのような雰囲気で話しを聞き、でも前に進むために必要であろう気づきが、彼女にもたらされるようにと祈り、舵を進めていきました。

はじめは硬かった彼女の表情が、話し終わる頃には赤く紅潮し、素敵な笑顔に変わっていました。

感想も負担になる、と言っていた彼女が翌日感想を送ってくれました。

私も、彼女の笑顔をみれてとても幸せな気持ちになりました。

こちらこそ、豊かな時間をありがとう!

【T様ご感想】

今回のが、今までで一番最高の
セッションだったのではないかな、
と思ったよ。

私自身は、セッションという意識を
持たずに「気付きを得なければいけない」
などと気負わなかったから、かえって
リラックスして自然体で居られたのかも
知れないね。

恵子さんのセッションの時の在り方が
とても自然な感じで、私の方もリラックス
して話せたよ。

私自身も、今までの人生の過程で
自分の無意識の中に押し込めて来た
感情や欲求を、ここ一週間位でようやく
意識化する事が出来始めていたので、

このタイミングで恵子さんとセッション
をする機会を持てて本当に偶然だけれど、
自分がまた一歩、次の段階に行く為に
必要な事に巡り会えたのかなと
思って。

感謝、感謝だね。

どうもありがとうね。

真面目な方、完璧主義な方ほど、

気づきを得なければならない、
結果を出さないといけない、

と何をやるにも重く受け止め、負担になり、
軽く行動する、がとても難しくなります。

そんな方ほど、本当はセラピーが必要なのですが、その思考であればこそ、なかなかセラピーを受けることにも至りません。

そんな方は、何か解決しようではなく、ひとまず、私のくだらない話しで笑いに
来てください。

この人アホやな、と私のアホな話しに笑っているうちに、リラックスし、本音が出て、いつのまにか前に進む道のりが観えてくる、という自然な流れが起きてきます。

苦しいとき、本来流れるはずのその人らしい人生の流れが堰き止められ
てしまっています。

それは過剰な責任を負わされたきた幼少期のやり方が手放せず、重くて辛くて動けないからです。

おしゃべりしながら、その荷物を私と一緒に外して、ひとまず寛いで笑ってひとときを過ごしてみませんか?

泣いても、笑っても、怒っても、大丈夫です。

そこに一緒に伴走しているのが、セラピストです。

まずは、気軽におしゃべりしてみませんか?

チャーちゃん今までありがとう。私はもう大丈夫とあなたが思えたから、旅立ったんですね。

21年前の夏、私は女の子の生まれたばかりの赤ちゃんだった保護猫を、近くのペットショップからもらってきました。

その前の年に離婚して、小さな子どもとも離別し、失意のどん底にいた私は、とにかく愛情を注げる対象が、癒しが欲しかったのでしょう。

小さな可愛いい生命を育てるのは、猫といってもはじめは手間がかかりました。

当時うつ状態で日常生活もままならないように状態だった私が、この子のためなら、と夢中でゲージやトイレを買いに行き、病院に連れて行って予防接種を受けさせて、としているうち、私自身の生命が段々と蘇っていました。

日々をただ生きていくために生きる、を子猫のチャーちゃんによって、私はいつのまにか手に入れていました。

彼女の前でどれだけ弱音を吐き、泣き、愚痴を聞いてもらい癒してもらっていたか分かりません。

人間だったら、とっくに私の相手に疲れて嫌になっていたでしょう。

でも、彼女はいつも遊び相手になってくれ、むしろぐーぐーと声を出して歓迎してくれていました。

2人で鼻と鼻を突き合わせてはふざけ、喜び合っていました。

夜、眠れなくて辛いなー、と思っている時間、チャーちゃんが起きているのを見かけたら、遊んだり、自分の布団に入れたり、餌をやっているうちに朝がきていた、なんてことも何度あったか数えきれません。

また私が当時、父とケンカすると、一目散に逃げ出すのはチャーちゃんでした。

その度に、猫であっても不穏な雰囲気、嫌な逃げ出したくなる気持ちは、いや、動物こそ敏感に感じ取るのだ。

チャーちゃんが嫌がることは、みんな私自身が嫌だ、と感じていることだ、と彼女の姿で気づかされることが多々ありました。

が、長年家族の中で蓄積され、抑圧されてきた私の親への怒りの感情は凄まじく、父とやり合ったあと、チャーちゃんごめんね、と謝りにいきました。

が、彼女は暗い机の下の方からずっと出てこないこともあり、この恐れ、恐怖こそ、私が小さな頃に獲得してしまった恐れだ、と思わされていました。

だからこそ、父へ、母への私の怒りもすごいんだ、と感じていました。

が、私はやっと、両親から自分を守る、境界を引く、他者との関係性の中で、私は私であり、私は私独自の考え、意見、生き方があり、他人と一緒でなくていい、多数派にならなくてもいい、いう心境になれてきていたから、彼女は私の役目は終わった、と思って逝ったのだ、と気づきました。

それはペットが死んだときのスピリチュアルな意味を読んでいて納得しました。

 

ペットが天国へ旅立つときを迎えたのは、
ペットがあなたを幸せにする役目を
終えたことの現れです。

自分がいなくてももう大丈夫、と思う頃、
あなたの幸せを見届けて安心して
旅立っていきます。

私たち人間の視点からすると、ペットの死は
悲しいものです。

けれど、ペットの側から見ると、死を迎えた
ということはその役割を果たすことができた
という喜ばしいことでもあるのです。

 

本当にその通りなのです。

生命力がない、生きる力がない、とずっと思っていた私は、そうでなく、生命力をおさえつけらてしまう幼少期の環境だっただけで、私自身の生命力がなかったわけではない。

間違った環境にいて、生命を活かす生き方知らず、私の生命を抑えつける生き方を無意識にしていただけなんだ、とつくづく思い、私の生命が発動してきたこれから、という今、チャーちゃんは旅立ちました。

ものすごく悲しくて今は辛いけれど、あなたが旅立ったということはもうあなたは大丈夫、と太鼓判を押された、と思っています。

実際、かつての私の生命力がない頃にあなたが居なかったら、私はどうなっていたかわかりません。

考えるだにぞっとします。

私は独りでもしっかりと立っていたい
自分で自分の幸せをしっかり掴んでたい

という心境になれるまで人生を一緒に伴走してくれてありがとう。

あなたがいたから、私は生命を繋げてこれ、生命を活かそうと思えるようになりました。

私が天国に行く日が来たら、また鼻と鼻をつけながらたくさんおしゃべりしてね、チャーちゃん、またね。

親を切り離してはじめてパートナーと盤石なタッグが組める。

最近自分の感覚として、親を切り離してはじめて私たちは、本当の自分の人生を生き、パートナーと本気で向かい合う、と感じています。

私たち夫婦は中年の再婚夫婦ですが、夫も私も再婚当時はお互いに自分の親を助けて生きていました。

それは無意識に、です。

が、私は4年ほど前からセラピーを学びはじめていたので、夫の母に会ったときはすぐに、子どもへの癒着が激しい人だな、と感じました。

また私自身が長い間母子癒着に苦しんでいたので、親と無意識にやっていた関係を、意識的に捉えるようになったものの、本当に親を自分の意識の中で切っていく、はできないでいました。

それがセラピーが進み、深く自分に何が起きていたのかを観て、傷や痛みを癒していくうち、私が私の人生を生きていくには、親を助けるのをやめないといけない、あるとき強く決意しました。

それによる影響や痛みがあったとしても、自分の本当の人生を手に入れることを優先し、それらを引き受けていこう、と覚悟した時期がありました。

それから親と距離を置き、だんだんと意識の上でも遠い存在になっていきました。

かつては親とは敬語を話さず、身内ならではのお互いに甘えていたところが、いつのまにか連絡のやり取りも敬語になり、なんでも話せる甘えた関係、ではなくなっていました。

こうなってはじめて、いかに、それまで親と近過ぎる関係であったか、と恐ろしくなりました。

親子と言っても、全く違う人間同士です。

なのに、親子、というだけでどれほど意識的にも無意識にも密であったか。

他人になら話さないことや期待しないことまで当たり前のように話して期待し合ってきたことか。

その代わりに何でも話し合い、密になったのが夫との関係でした。

親と距離を置けば置くほど、夫との関係が近づき絆が強くなっていました。

例えば、夫に不満があるとき、4年前の私は母や友達に漏らしていました。

今は夫に不満があるとき真っ先に夫に言います。

コミュニケーションをどううまくやっていくか、をいつも試行錯誤し、もっと上手くなりたい、と思っています。

親に話そうなどとは1ミリも思いません。

目の前の人に向かい合い、目の前の物事に向かい合う日々に母を思い出すことも、母からの連絡に心を揺さぶられることもなくなりました。

私が母を助けなくていい、
私が母を幸せにしなくていい、
母は母の人生、私は私の人生である。

この当たり前の事実をやっと掴んだからです。

今、なぜこれを書いたかと言うと、

この事実をこの日本では
あからさまに言うと、

自分を育ててくれた親なのに。
親の世話をしなくていいの?

など、親を助けて自分の人生を生きず、かつての私のように、親を助ける人生が自分の人生、かのような生き方を無意識にしている人があまりに多い、と感じるからです。

それは人に嫌われてもいい、という
勇気にも関わっている、と感じます。

誰の人生なのか?
他人に気を遣い、親や他人を助けることが
本当に自分の人生のあり方なのか?

じっくり考えていくともっと自分の
人生を輝かせて生きていける人が増える
と思えてなりません。

すべての人が自分の人生を優先し、
親よりも今目の前のパートナー、
今目の前のやるべきことに意識
を向けて生きれるよう祈っています。