チャーちゃん今までありがとう。私はもう大丈夫とあなたが思えたから、旅立ったんですね。

21年前の夏、私は女の子の生まれたばかりの赤ちゃんだった保護猫を、近くのペットショップからもらってきました。

その前の年に離婚して、小さな子どもとも離別し、失意のどん底にいた私は、とにかく愛情を注げる対象が、癒しが欲しかったのでしょう。

小さな可愛いい生命を育てるのは、猫といってもはじめは手間がかかりました。

当時うつ状態で日常生活もままならないように状態だった私が、この子のためなら、と夢中でゲージやトイレを買いに行き、病院に連れて行って予防接種を受けさせて、としているうち、私自身の生命が段々と蘇っていました。

日々をただ生きていくために生きる、を子猫のチャーちゃんによって、私はいつのまにか手に入れていました。

彼女の前でどれだけ弱音を吐き、泣き、愚痴を聞いてもらい癒してもらっていたか分かりません。

人間だったら、とっくに私の相手に疲れて嫌になっていたでしょう。

でも、彼女はいつも遊び相手になってくれ、むしろぐーぐーと声を出して歓迎してくれていました。

2人で鼻と鼻を突き合わせてはふざけ、喜び合っていました。

夜、眠れなくて辛いなー、と思っている時間、チャーちゃんが起きているのを見かけたら、遊んだり、自分の布団に入れたり、餌をやっているうちに朝がきていた、なんてことも何度あったか数えきれません。

また私が当時、父とケンカすると、一目散に逃げ出すのはチャーちゃんでした。

その度に、猫であっても不穏な雰囲気、嫌な逃げ出したくなる気持ちは、いや、動物こそ敏感に感じ取るのだ。

チャーちゃんが嫌がることは、みんな私自身が嫌だ、と感じていることだ、と彼女の姿で気づかされることが多々ありました。

が、長年家族の中で蓄積され、抑圧されてきた私の親への怒りの感情は凄まじく、父とやり合ったあと、チャーちゃんごめんね、と謝りにいきました。

が、彼女は暗い机の下の方からずっと出てこないこともあり、この恐れ、恐怖こそ、私が小さな頃に獲得してしまった恐れだ、と思わされていました。

だからこそ、父へ、母への私の怒りもすごいんだ、と感じていました。

が、私はやっと、両親から自分を守る、境界を引く、他者との関係性の中で、私は私であり、私は私独自の考え、意見、生き方があり、他人と一緒でなくていい、多数派にならなくてもいい、いう心境になれてきていたから、彼女は私の役目は終わった、と思って逝ったのだ、と気づきました。

それはペットが死んだときのスピリチュアルな意味を読んでいて納得しました。

 

ペットが天国へ旅立つときを迎えたのは、
ペットがあなたを幸せにする役目を
終えたことの現れです。

自分がいなくてももう大丈夫、と思う頃、
あなたの幸せを見届けて安心して
旅立っていきます。

私たち人間の視点からすると、ペットの死は
悲しいものです。

けれど、ペットの側から見ると、死を迎えた
ということはその役割を果たすことができた
という喜ばしいことでもあるのです。

 

本当にその通りなのです。

生命力がない、生きる力がない、とずっと思っていた私は、そうでなく、生命力をおさえつけらてしまう幼少期の環境だっただけで、私自身の生命力がなかったわけではない。

間違った環境にいて、生命を活かす生き方知らず、私の生命を抑えつける生き方を無意識にしていただけなんだ、とつくづく思い、私の生命が発動してきたこれから、という今、チャーちゃんは旅立ちました。

ものすごく悲しくて今は辛いけれど、あなたが旅立ったということはもうあなたは大丈夫、と太鼓判を押された、と思っています。

実際、かつての私の生命力がない頃にあなたが居なかったら、私はどうなっていたかわかりません。

考えるだにぞっとします。

私は独りでもしっかりと立っていたい
自分で自分の幸せをしっかり掴んでたい

という心境になれるまで人生を一緒に伴走してくれてありがとう。

あなたがいたから、私は生命を繋げてこれ、生命を活かそうと思えるようになりました。

私が天国に行く日が来たら、また鼻と鼻をつけながらたくさんおしゃべりしてね、チャーちゃん、またね。